2011年7月12日 被災地・被災者の現地調査
小布施町社会福祉協議会局長から6月30日にお話しをいただき、少々迷いはあったものの即決で参加を決めた。決めた理由は、何かしたいと思っている人と、何かして欲しいと思っている人をつなげるには、自分の目で、耳で、肌で、心で、足で感じたいと思ったからだ。
7月12日、夕方仕事中に雷付き雨のファンファーレ。この先に何が起こるのか分からない中、少々の不安を感じていた。いつもと変わらず、子ども達に普通にご飯を食べさせ、寝かしつけた後、待ち合わせの役場に社協の車を走らせ向かう。緊張のあまり早く着き過ぎてしまった…。元気な笑顔メンバーに囲まれて参加出来たことを本当に嬉しく思う。車内は常ににぎやかだった。本藤さんの素晴らしい運転の横で安心しながら、緊張もまだ解けず、夜の街を走り抜ける。夜明けと共に子どもが気になったが、そんな時ミラクル発生!
通行止めでインターを降りないといけないはずが |
解除まで待たせてもらうことに |
その後、映寿さんの声掛けで、高速の下を見ると徐々に広大な田んぼや畑の中にガレキや壊れた車、ガレキの収集場所、仮設住宅と様々なものは見えてきた。しかし、この後の状況の方がひどいのは言うまでもない。石巻河南インターを降り、女川に向かう。朝食休憩中に見る小学生の登校姿。
この先、ワッシーからのトランシーバーから聞こえてくる情報、スケジュールを携帯のメモに取りながら今日の流れを頭に入れる。車が進むごとに徐々に言葉を発せられなくなっていく。道も悪くなっていく。『海が見えないのに、ここまで水が…。建物はあっても中がない…』そんな光景がずっと続くが、女川に入り進むごとに更に言葉がなくなる。『ここは…』進めば進むほど、自分の非力さが浮き彫りになる。この地で、このような地で、どのような支援が必要で、どのような支援をしていけばいいのか…。色々な疑問が頭の中をぐるぐる回っていた。
女川町保健センター兼包括支援センター前 |
女川町保健センター兼包括支援センターで田中機械さんの提供する大型冷蔵庫の搬入。
私はその様子をビデオに撮影する。建物に入って行くと、フロアのブルーシートに広げられた多くの書類をまとめ、仕分けている方が15人くらい。これから行われる健康診断の案内などの書類の発送準備をしているのだという。そこには、県外のスタッフが混ざっていた。搬入に携わってくれたのは栄養士の方。ご自身も被災しながらも頑張っている。多くの方に多くの食事が行き届く事を願いながら保健センターを後にする。
その後、筆遊び班として行動。女川第一中学校に到着。校舎に入る前からハエが多い。
小学校教頭先生の素敵な笑顔に出迎えられ校舎に入る。中学生は試験休みとして登校しておらず、静かな校舎だった。
持っていったベッキ―画笑顔うちわ |
階段にあった旗 |
教頭先生より
『各担任が聞いても子ども達から要望は出てこない。
先生達が望んでいるものは、「静けさ」
普通の学校で、普通の教育ができることを望んでいる。』
にぎやかせるのは簡単だが、震災が起きたことで遅れてしまった教育。それをどう補っていくかが教師の課題、希望なのだと感じた。予定の2時間目になり、教室に行くと元気な子ども達の声。それだけで救われる。
子どもの力ってスゴイな…と感じながら、子どもと接する仕事をしていた時の自分を思い出す。子ども達は映寿さんのことを覚えていて、みんな笑顔になる。筆遊びだけでなく、文香という作品づくりをする。お香の独特な香りに子ども達の顔が変化するのがまた可愛かった。その後、更に笑顔になった子ども達が映寿さんの周りで見本を書いてもらうのを見る。その様子を見て、普段の授業も大事だが、地域の人などを講師にし、教わる学習というのも大事なことだと感じた。そういうこともあり、教頭先生は、授業の過程の延長の支援であれば有難いと言われたのは納得できる。
子ども達の笑顔をもっと見ていたいと思った時、ワッシー&まっぴんさん、ドライバーの古澤さんが迎えに来る。高野さんと共に後ろ髪をひかれながら学校を後にする。地元の災害ボラセンのヤマピーさんに案内してもらい、避難所の視察に向かう。
避難所(1) 旧女川第3小学校(昨年統合して廃校)
前回、保福寺が避難所になっていたが、そこは撤退してそこにいた人たちは小学校または仮設に避難している。校庭に仮設住宅(25件くらい)あり。避難所には25、6人がいる。
食事:朝・夕は作っている。昼はお弁当をとっている。水は水道水から引いている。石巻市はもと から塩素の強い水だったが、女川の水はおいしい。しかし、震災後の味は分からないが普通に飲める状態にある。食材は、NPOの人が届けてくれる。炊き出しはこないが、やってくれれば嬉しい。
・希望:透明または白い中の見えるビニール袋、うすいビニール手袋、暑さ対策のもの
避難所(2) 女川第3小学校
・行政に認められていない準避難所、県外のNPOが運営(20人くらい)
・若い人たちは、仮設住宅や石巻市に越してしまった。仕事も石巻市で働いている人が多い。仕事がない。漁業はまだ再開していないが、もう少ししたらサンマ漁が始まる。
・食事は年配の自分たちで作っている。
・敷地内には、お風呂がない時に持ってきてくれたサウナが2つ(薪をくべて暖める)。今は、仮設にお風呂が男女1つずつあるので、サウナは使っていない。
・ハエ対策で、砂糖水と酢を混ぜたものを空のペットボトルに入れて置いている。微妙に配合が決まっているとのこと(笑)
・希望:暑さ対策のもの、仮設避難所用意してあるが、暑くて使えないので物資保管庫に使っている。仮設住宅も窓と玄関しか風が抜けるところがない。扇風機もあるが一家に一つでは暑くてダメ。ビニール袋(大きいもの)ビニール手袋、つっかけタイプの水はけの良いサンダル欲しい。
避難所(3) かっぱ農場 指ケ浜地区⇒地元漁業組合の方が主に避難している
・食事:自分たちで作っている。物資の水など色々な所から届いているが、収納する所がないのか倉庫の他は炎天下にあった。佐賀や福岡など遠い所からのものが多かった。
・避難所の周りには漁業で使う浮きや網が集められていた。
・仮設住宅内に談話室の建物があった。冷暖房も完備していた。しかし、実際に入っている方は少なかった。
・希望:船が欲しい
避難所(4) 一家だけで住んでいる仮設住宅
・目の前の道路は崩れている。道の反対側には大破した車が2台。
・砂利の所に家はあったが流されてしまった。水道だけは引いてもらい残っている。
・何か欲しいもの…という話の時におじいさんのお墓は無事だったと話してくださり、お線香とローソクがあればと言われた。ワッシーが持参されていて寄付。
午前の活動は終了し、筆遊び班を待ちながら一足先に昼食をとる。生まれて初めてハエと格闘しながら食事をした。常に動きながら…。はたから見れば、何を踊っているのだろう?と感じるほど。行儀悪いなどと言っていられない。弱肉強食の世界…。 午後からは、女川住民のマッキ―さんと合流し、アスザックさん提供のフリーズドライの素や救急グッズなどを渡し、実際に住んでいる仮設住宅を見学(大勢で入れない為、自分は見学できず) 外でお話しを伺う。暑いこと、トタン製の屋根なので伸び縮みする際に音がすることなど教えていただく。仮設に炊き出しはないが、食材の移動販売は来る。そして、実際に地震当日の地震が来てからの話を聞く。(詳細は高野さんの報告書をどうぞ!) 希望としては、車がない人でも移動できる自転車が欲しいと。自衛隊のお風呂がもうすぐ撤退する予定がある。(7/24のワッシー情報では決定したとのこと)
実際に女川に足を踏み入れてみて感じた事は、ハエが多い…衛生環境がイイとはいえないのかもしれない。特に一度海にのまれたという第3小学校御前浜分校では、ハエとり紙だけでは追いついていなかった。蚊はいなかったのが不思議だった。そして、各避難所とも暑さ対策を…という声が出た。仕事がない=収入がない。仮設住宅では、避難所と違い、独自で生活していかないといけない。エアコン完備でもお金がなければ使わない。最小限の食事と生活。仮設住宅はトタンの屋根で暑さを増す。暑さをしのぐには何か必要か考えていく必要がある。これから子ども達は夏休みになる。子ども達が子ども達らしく過ごせる場があるのかが心配である。
4カ月半経ち、ガレキの撤去は、個人ボランティアというより、重機を使っての大きな作業が必要になってきている。ビル3階くらいのガレキをこれから分別するという話を聞いた時に、あとどれくらいの年数が必要なのか。被災地にもよると思うが、これからの支援は復興活動、行政が1件1件のニーズを聞き取り、本当に必要な支援をしていく必要がある。今回のように、実際に住民の方から話を聞き、支援をしていく笑顔メンバーの活動は引き続き支援していきたい。そして、引き続き被災地支援をしていくのであれば、行ける時に一緒に行き、聞きとりすることが大事である。帰ってきてから2週間経ったが、色あせない記憶。静かな海…それが暴れたとはいまだ思えない。 今回、笑顔メンバーと一緒に行かせていただき、本当にありがとうございました。皆さん、慣れない私に気を使っていただき本当に嬉しかったです。映寿さん始め、笑顔メンバーの皆さん最高です。皆さんの自主的で積極的な行動は、とても見習わないといけないとこだと思います。被災地の早い復旧と復興を願い、また小布施で出来る支援を考えていこうと思います。
小布施町社会福祉協議会 日本笑顔プロジェクト 矢島美奈子